文学極道における年間総評を書く。とすれば、途中から選考委員として入った私が書くことなど何もないのだが、
あえて言い得ることがあるとすれば、それは「homo aversio」という言葉に表されること以上のものはない。
「否定性」という(アガンベンに言わせれば)人間の言-能の最も上位に置かれる言葉をまったく尊重していうのだが、
(そしてあくまでも私的に言うのだが)、前年度の各賞の選出は紛れもなくこの「否定性」そのものによって導かれたものにほかならない。
それはある意味で言えば「文学極道」というその場にとって相応しいものであったかもしれない。あれとこれとの闘争、各項と各項とが互いに
「厳しい罵倒」をし「酷評」をすることによって―――蚤が蚤を潰し合うようなものではあるが―――あの感傷を呼び起こす言葉である「弁証法」として
自らの作品を高めていくという、この「文学極道」という、その場に則った形で選出されたものがこの年間各賞である。
まずは彼らを讃えよう……私がこの文章を書き終える前に、彼らの幾ばくかが死に絶えようとしていたとしても。
彼らが沈黙に落ちる前に、「新しい文学を創造した者、最もイマジネーションを炸裂させた者」に与えられるという《文学極道創造大賞》について見ていこう。
zero作品 http://bungoku.jp/monthly/?name=zero;year=2012
なるほど、仔細に良く描けた「イメージ」の連なりである。正直、それだけで(そして そ れ だ け でしかないのであるが)前年度で最も優れた書き手として
文学極道創造大賞を冠するに相応しい作者である。
しかしながら、「イメージ」、「描写」…そんなものは正直、私にとってどうでもいい。もちろん、前年度の選考を行う上では、
すべての作品を吟味した上で、賞を冠するに相応しい作者・作品を選んではいるのだが、それらのほぼすべてに感じられたのは、
「イメージ」についての信頼、いや、「イメージを描く」ことへの執着であった。あたかも、言葉の絵画論的展開、
すでに古臭い響きを帯びたこの言葉をも超え、過去に逆行するような言葉、「詩は絵画のように。」を実践するかのように。
まるで自分の言葉が伝わらないことを恐れるエイリアンのように。
描写される「イメージ」を美しく書くこと。それは「文学極道」のドグマであり、
ここで評価されるに手っ取り早い手段ではある(そしてもちろんそのような作品は評価されてしかるべきでもある)。
だが、年間を通してみても、 そ れ 以上の作品が見受けられなかったことは残念でしょうがない。
書くものを「イメージ」へとすること。それは「視覚性」への信頼であり、「書き得ること」は「見れること」でもある。
そして「見れること」というのは、(改めてW.J.T.ミッシェル等を持ち出すまでもなく)近代-制度的なレジームそのものである。
「ポストモダン」などという言葉がもてはやされて久しく、改めてこの言葉を持ちださざるを得ないのも嘲笑すべきことではあるが、
残念ながら、文学極道の現在の立ち位置は、それ以前の「モダン」に留まっていると言わざるを得ない。
そして、これはまた近代-制度という以前に、根本的な「言語」の問題である。
マラルメはコミュニケーションの言語と、詩として書かれる言語を区別したが、(誠に情けないことに)そこまで立ち返らなければならない。
つまり、文学極道における投稿者諸氏は、言葉を「イメージ」として定立させること、(マラルメの言っていることとは少し外れるが)、
すなわちコミュニケーションの言語に留まっており、それ以上ではない、ということだ。
だが、これは「現代」という文脈においてみると、興味深い問いでもある。
「なぜ詩としての言語を、コミュニケーションとしての言語(絵画論的展開後の「イメージ」)として、書かなければならないのか?」
この問いに対し―――あくまでも私の仮説ではあるが―――答えるとするならば、現代において詩を書くものは「コミュニケーション不全」という、
現代における根本的な「病」を抱えており、「詩」をそのサプリメント(代補)として処方しているにすぎないのではないか、ということである。
端的に言えば、現代の詩人(と、詩人と呼ばれたい人間)はコミュニケーションのできないクズ人間の集まりであり、
近代-制度に裏付けされた「イメージ」というものを介して し か 、コミュニケートできない病人の集まりではないか、ということだ。
これはつまり「言語」そのものへの不信、こう言い換えれば、「他人」への不信そのものが言葉として、現代では「詩」というフォーマットとして
成り立っているがために、投稿者諸氏はこういったものを書いているのではないか。
と、コミュニケーションの「言語」などにまったく不自由していない私としては、こう考えざるをえない。
「人間嫌い」(homo aversio)。これが文学極道における投稿者諸氏、「詩人」に相応しい名称である。
これ以上私が「詩人」達に言うことがあるとすれば……「詩」を書こうとする前に、まずは病院に行き、医者の適切な処方箋を受けた上で、
ぐっすりと眠ることをオススメしたい。好きな音楽を聴きながらでもいい。
「詩」を書くのはその後でいい。私が「病人」に批評(Critique)を書く必要はない。「詩人」に必要なのは診療(Clinique)なのだから。
0 件のコメント:
コメントを投稿