2013/11/05

Deep Azur


雨音がワルツを組み立てて幻想が終わる。
複数形になって私たちは眠る。
鏡に写る、一瞬の永遠をめぐる、
木星の輪をつたって落ちてゆく。
砂浜の白い、海の切れるところまで。
私は人魚じゃない。

木陰のもとで私たちは目を覚ます。
陽の光に静かな風の交わるところに美しさがある。
穏やかに、髪が木葉の苦しみを掴みあげる。
砕けちる音に私たちは笑いあった。
素足を投げ出して指先からテントウムシが飛んでいった。
何が穏やかだったのだろう。

冷たくなった私は砂漠の冬を歩く。
親指の爪までの温度を私たちは雪にほどこしていたかった。
夜の、雨が埋もれた枯木を砂へと分け与えていた。分前を、
施しを知らない天使たちは放課後のチャイムの音を知らない。
窓に流れる雨粒が丸まって繭になる。
私に羽があったなら、

眼をつむる一瞬だけ、私たちは慈悲深い蛾の女王になる。
あの夏の紅海を越えて、身体に乾く塩を
鱗粉に換えて私は飛んでゆく。
魚鱗に微かに散る海の飛沫こそ私の誇り。
瞬きほどの想い出が井戸の底に積り、
雪と交わった私たちは寄り添い会えぬまま眠る。

そうやって私たちは幻想となって終わる。
雨の音など聞こえていなかった、秋に。

2013/05/22

homo aversio




文学極道における年間総評を書く。とすれば、途中から選考委員として入った私が書くことなど何もないのだが、
あえて言い得ることがあるとすれば、それは「homo aversio」という言葉に表されること以上のものはない。

「否定性」という(アガンベンに言わせれば)人間の言-能の最も上位に置かれる言葉をまったく尊重していうのだが、
(そしてあくまでも私的に言うのだが)、前年度の各賞の選出は紛れもなくこの「否定性」そのものによって導かれたものにほかならない。
それはある意味で言えば「文学極道」というその場にとって相応しいものであったかもしれない。あれとこれとの闘争、各項と各項とが互いに
「厳しい罵倒」をし「酷評」をすることによって―――蚤が蚤を潰し合うようなものではあるが―――あの感傷を呼び起こす言葉である「弁証法」として
自らの作品を高めていくという、この「文学極道」という、その場に則った形で選出されたものがこの年間各賞である。
まずは彼らを讃えよう……私がこの文章を書き終える前に、彼らの幾ばくかが死に絶えようとしていたとしても。

彼らが沈黙に落ちる前に、「新しい文学を創造した者、最もイマジネーションを炸裂させた者」に与えられるという《文学極道創造大賞》について見ていこう。

zero作品 http://bungoku.jp/monthly/?name=zero;year=2012

なるほど、仔細に良く描けた「イメージ」の連なりである。正直、それだけで(そして そ れ だ け でしかないのであるが)前年度で最も優れた書き手として
文学極道創造大賞を冠するに相応しい作者である。

しかしながら、「イメージ」、「描写」…そんなものは正直、私にとってどうでもいい。もちろん、前年度の選考を行う上では、
すべての作品を吟味した上で、賞を冠するに相応しい作者・作品を選んではいるのだが、それらのほぼすべてに感じられたのは、
「イメージ」についての信頼、いや、「イメージを描く」ことへの執着であった。あたかも、言葉の絵画論的展開、
すでに古臭い響きを帯びたこの言葉をも超え、過去に逆行するような言葉、「詩は絵画のように。」を実践するかのように。
まるで自分の言葉が伝わらないことを恐れるエイリアンのように。

描写される「イメージ」を美しく書くこと。それは「文学極道」のドグマであり、
ここで評価されるに手っ取り早い手段ではある(そしてもちろんそのような作品は評価されてしかるべきでもある)。
だが、年間を通してみても、 そ れ 以上の作品が見受けられなかったことは残念でしょうがない。

書くものを「イメージ」へとすること。それは「視覚性」への信頼であり、「書き得ること」は「見れること」でもある。
そして「見れること」というのは、(改めてW.J.T.ミッシェル等を持ち出すまでもなく)近代-制度的なレジームそのものである。
「ポストモダン」などという言葉がもてはやされて久しく、改めてこの言葉を持ちださざるを得ないのも嘲笑すべきことではあるが、
残念ながら、文学極道の現在の立ち位置は、それ以前の「モダン」に留まっていると言わざるを得ない。

そして、これはまた近代-制度という以前に、根本的な「言語」の問題である。
マラルメはコミュニケーションの言語と、詩として書かれる言語を区別したが、(誠に情けないことに)そこまで立ち返らなければならない。
つまり、文学極道における投稿者諸氏は、言葉を「イメージ」として定立させること、(マラルメの言っていることとは少し外れるが)、
すなわちコミュニケーションの言語に留まっており、それ以上ではない、ということだ。
だが、これは「現代」という文脈においてみると、興味深い問いでもある。

「なぜ詩としての言語を、コミュニケーションとしての言語(絵画論的展開後の「イメージ」)として、書かなければならないのか?」

この問いに対し―――あくまでも私の仮説ではあるが―――答えるとするならば、現代において詩を書くものは「コミュニケーション不全」という、
現代における根本的な「病」を抱えており、「詩」をそのサプリメント(代補)として処方しているにすぎないのではないか、ということである。

端的に言えば、現代の詩人(と、詩人と呼ばれたい人間)はコミュニケーションのできないクズ人間の集まりであり、
近代-制度に裏付けされた「イメージ」というものを介して し か 、コミュニケートできない病人の集まりではないか、ということだ。

これはつまり「言語」そのものへの不信、こう言い換えれば、「他人」への不信そのものが言葉として、現代では「詩」というフォーマットとして
成り立っているがために、投稿者諸氏はこういったものを書いているのではないか。
と、コミュニケーションの「言語」などにまったく不自由していない私としては、こう考えざるをえない。

「人間嫌い」(homo aversio)。これが文学極道における投稿者諸氏、「詩人」に相応しい名称である。
これ以上私が「詩人」達に言うことがあるとすれば……「詩」を書こうとする前に、まずは病院に行き、医者の適切な処方箋を受けた上で、
ぐっすりと眠ることをオススメしたい。好きな音楽を聴きながらでもいい。

「詩」を書くのはその後でいい。私が「病人」に批評(Critique)を書く必要はない。「詩人」に必要なのは診療(Clinique)なのだから。

2013/01/30

【HHM参加作品】Ex-(hibition) × Ex-(tinction)―― ni_ka, 反現代死


   祝祭の家に行くよりは、喪の家に行くほうが良い
                          ―――コヘレトへの言葉 7:2

   芸術の源泉である非-芸術、
   そしてこの低音たる知恵は言い得るのだろうか?
                          ―――Jean Wahl



HHMの規定において、「作品論に限定」、「詩のサイト発でありながら詩以外のあらゆる作品を対象とする」とあるが、
これから論じるものは以上の規定に当てはまっているか定かではない。(というか、勝手に判断してくれればいい。)
以下では、ni_ka「AR詩」、中でも「ニッポニアニッポン」と呼ばれる作品(展示終了)および、反現代死の諸作品について論じる。



■参照

ni_ka「ニッポニアニッポン」(展示終了につき、Togetterまとめ)
http://togetter.com/id/ni_ka

反現代死
http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=8915


インターネットにて2012年に浮上してきた2人の詩人の作品について、詩を書くものが語っているのを、
つまり「詩人」の側から語っているのを私は観たことがない(もっとも、「詩人」がこれらを語るものなんぞ興味無いし読むはずもないが。)
何故か? 1つには2人の作品が一般的な「詩」より逸脱した作品であることがあげられるように思う。

しかしながら問題なのは、「詩人」が何故このような作品について語れないのかという彼らの怠慢である。
すなわち、多くの詩人は自らが語れるものを「詩」とし論じているだが、残念なことに彼らの視野はあまりにも狭く、
「詩」それ自体の中で完結する。それは同時に排他的ですらある。

近年(いや、以前から)“詩を読む人の少なさ”が嘆かれているが、その恒常的な病の原因の一つは、
このような詩-世界(Art-WorldにならってPoetry-Worldと文字ってみる)の構造そのものである。
またこの頃一つ聞かれる言葉に“作品の質が低下している”というものがあるが、
この言葉を言う前に、我々は栗田勇が「詩の質の低下と技術の低下」を嘆いた時、まだ彼が34歳だったということを思い出さねばならない。

閑話休題。

それでは始めよう。ただし、これは批評(criticism)ではなく、私なりのレビュー(review)である。



   今日の芸術家はもはや生産しない、あるいは生産することが一番重要なのではなく、芸術家は選別し、比較し、断片化し、
   結合し、特定のものをコンテクストのなかへ入れ、ほかのものを除外するのである。
                                          ―――ボリス・グロイス


「ニッポニアニッポン」、それはディスプレイされた/に映しだされた作品――見た目は“キャンディの包み紙”以上でもそれ以下でもないのだが――
自体に包みこむことであり、またそれは作品に内包されたメッセージである「喪の限界」を、「観客/読者」とともに包み込んでいる。
したがって、この作品において創り出されるのは、作品それ自体だけではなく、「喪」、そして「喪の限界」となった「観客/読者」自身である。

ディスプレイされた/に映しだされた作品――見た目は“キャンディの包み紙”以上でもそれ以下でもないのだが――に包みこむことであり、
その作品に内包されたメッセージである「喪の限界」を、「観客/読者」とともに包み込む。したがって、この作品において創り出されるのは、
作品それ自体だけではなく、「喪」、そして「喪の限界」となった「観客/読者」自身である。

既に、そして常に我々は「喪の対象」である。日々の生活において忘れ去られているこの単純な事実を、
「ニッポニア二ッポン」は観客/読者として出力(print)する。
「ニッポニア二ッポン」において、それを「詩」と成立せしめる核となる言葉は、この「出力(print)」という言語構造(code)である。※1
(その意味において、この詩の読者は「解釈(interpretation)」するというよりは「エンコーディング(encoding)」すると言うべきだろう。
読まれうるのは詩ではなく読者そのものなのだから。)※2

その一方、この作品がメッセージ(内-容)を表しているという意味で、「ニッポニア二ッポン」は「記号」として転化し得る。
この審級においてこそ「喪の限界」というものが語られうる。ボードリヤールの古き言葉を思い出そう。
「われわれは記号に保護されて、現実を否定しつつ暮らしている。これこそまさに奇跡的な安全というものだ。」
災厄によってそこに残されたモノ、荒涼とした光景を、「記号」としての「ニッポニア二ッポン」が我々の目を覆う。
所詮、我々は危険区域圏外にいるのだと、目の前のインターネットデバイスがささやく。
「世界についてのさまざまなイメージを目にする時、つかの間の現実への侵入とその場に居合わせないですむという
深い喜びとを誰が区別したりするだろうか。」

「喪」の意識はこの作品に包まれることによって創り出されると同時に脅かされる。包み込むとは同時に視界を遮断することである。
いかにこの作品が「喪の対象」として観客をそれとして成らしめようとしてもなお、“死を経験することはできない”という原則――
“死は生とは切り離されたナニカ”である――が安易に作品の「記号化」を促す。
言い換えれば、死という経験外のナニカを“疑似”体験させる、という構造が、「喪」を、「死」を、
単なるそれらのアナロジーとしての「記号」へと転化させるのである。

すなわち「ニッポニア二ッポン」という作品の構成上、「喪」とは「観客自身」のそれであり、「他の誰か」に対しての「喪」ではない。
ここで「ニッポニアニッポン」という作品自体が「他の誰か」(例えば作者)であり、それ自身が「喪の限界」を表している、ということもできるだろう。
しかしそれでは、いとも容易く先述のアナロジーの罠へ陥ることとなってしまう。
もちろん「自身の喪」を通して「他の誰か」の「喪」への念を抱くことはできる。しかし、それは結局自身に向かう意識であり、
「他の誰か」へ向けられる意識ではない。“ブラウザ”と“観客”という対応関係――閲覧環境には「他の誰か」の視線が欠けているのである。※3

また観客を「喪と成らしめる」この作品の構成は、この作品自体が「暴力」であることを暗示しているように思われる。
それは「他の誰か」の視線が欠けた「暴力」、そのような人の意識の及ばないところで行われている強姦まがいの「暴力」である。
女性-性という位相を持ちだしてくるとすれば、それは目の前を覆う色の氾濫、それが観客に行使する色彩としての「暴力」でもある。
「喪の限界」において、我々は「暴力」という「喪(の限界)」の時間な規定に晒される。
すなわち我々は未だに「暴力」に囲まれているのであり、既にその一部なのである。
(だがその暴力を自分自身に行使して「自己非難(Self-abasement)」になってはならないだろう。)

これはこの詩を読む読者にとって、(あの忌々しい)「人称性」の問題という形で示される。それも、「人称の欠如」という形で。

この詩には人称が欠けている。「他の誰か」の視線の欠如、また「暴力を振るっているのは誰か?」という問いは、
この作品が目の前を色彩で満たすことによって覆い隠しているもの、すなわち「人称性」という余白に起因するものである。
そしてこれこそ「ニッポニア二ッポン」が「喪の限界」を、問いという形で突きつけているものである。

■Extinction Elegies : a post-Fukushima interactive video-poem tht introduces mutations into the DNA of meaning.
http://glia.ca/2011/extinctionElegy/

以上のURLリンクはカナダの詩人David “Jhave” Johnstonが2011年に発表したデジタル・ポエトリーである。
手法や見/読み方はリンク先にあるので、詳細は割愛するが、「ニッポニア二ッポン」と関係して、
我々の福島の後を扱った作品として紹介したい。

デジタル・ポエトリーの積極的な論者であるRita Raleyはこの作品について、Jhaveの言葉を借りながら、プログラミング言語(code)/テキスト、
アナログ/デジタル、主観/客観などといった、デジタル・ポエトリーを論じる上で語られる二元性を調和する試みとしてこの作品を説明している。
それには上で私が述べたこととも一部共通するところもあるのだが、『Extinction Elegies』において福島は主題でなく、
むしろステートメントにあるように、言語とその置かれた(社会)環境との関連性に主眼が置かれている。
またRita Raleyの論も「デジタル・“ポエトリー”」というカテゴリー(の拡張)について論じるにあたり、
結局はJhaveの「言葉(text)」に、その多くを依存しており、作品それ自体の内容を掘り下げて論じているというわけではないのには留意する必要がある。

広義にはこういったtext-baseな作品がデジタル・ポエトリーというカテゴリーに属しているのだが、
逆に言うと、(text-baseではない)「ニッポニア二ッポン」が「デジタル・“ポエトリー”と言い得るのか?」
また「何故これが“詩”でなければならないのか?」――「ニッポニア二ッポン」はこの質問に答えられるのだろうか?

これは「“詩”と言いうるのは何か?」という「限界」、そうした根本的な問いにまで射程を広げることができるだろう。

■Dans la gueule du loup(In the lion's mouth)
 http://www.poemsthatgo.com/gallery/winter2003/clauss/index.htm

「ニッポニア二ッポン」と同じくtext-baseではない作品としては、上記URLにあげた
Nicolas ClaussとJean-Jacques Birgeによる『Dans la gueule du loup』という作品を紹介したい。

まず映像とは視覚的記号と内容の結合体である。例えば、この作品において視覚的記号とはオオカミであり、
そのオオカミが何を示しているかという意味が内容にあたる。また視覚的記号と内容との結合は観客がそこに介入することでインタラクティヴに決定される。
つまり、記号(expression)と内容(matiere)の関係性に、読者が介入するというプロセスを経ることにより、それは読者は解釈-する者(interpret-ant)となる。※4
このように簡潔に述べたが、以上が「読む」ということになる。畢竟、「読む」という行為が遂行されうるものは全て「詩」と名乗る権利を持つのだ。


したがって、反現代死が発表した以下のような作品も言うまでもなく「詩」と名乗る権利を持つ。

■ばけぬこー^
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=251249

■crc
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=257444

反現代死の作品において、我々が目にしているのは記号、残骸、トゥイッターのタイムラインからコピペしたような単語と文、
文脈を切り離されて繋ぎ合わされたURL(URLも内容を持った文字列である)もどきと言葉、
もしくは文字化けした言葉の残骸、ゴミ、クズ、現代詩の真似をしたクソのオンパレード――インターネットの「Merz」。
あるいはダダ、レトリスム、、、のような、魔力のない"できそこないの物語"である。

にもかかわらず、反現代死の作品は「詩」であり、インターネット上における言語芸術(text-based Art)を追求するに辺り繰り返される初元的な試みである。
何故インターネットにおけるこうした諸作品は、アヴァンギャルドないしコンセプチュアルなスタイルで参照・提示されるのか。という問いについて、
Julian Stallabrassが、インターネット上のアートが未だ美術史的な位置づけを得ておらず、だからこそ自らをアートとして位置付けるためには
そうした表現手段を取る方が手っ取り早く確実であるから、と説明しているのは拝聴に値するだろう。※5

私は先ほど「ダダ、レトリスム、、、のような」と述べたが、それはつまり、反現代死の諸作品は相対的にではあれ、
インターネット上でのそれらが「詩(および詩史)」の系譜に連なることを示している。
逆に言えば、「『読む』という行為が遂行されうるものは全て『詩』と名乗る権利を持つ」にもかかわらず、
反現代死が自らの試みを「詩」として示す(詩として受容される)ためには、詩史(および詩-制度)に回収されざるをえないということでもある。
反現代死がそれを望むのか望まないかは定かではないが、おそらくその憑き物を祓わない限り、評価は好転しないだろう。※6
しかしながら、詩史(および詩-制度)とインターネットにおける詩という関係に針を刺す、という意味で、反現代死の諸作品は意義を持つものではある。※7

一方、これはインターネット上の「詩」の読者が、如何に「詩史(および詩-制度)」に繋がれているかを示している。


季刊26時の主催者である佐々木青、今野大地、田村大介の3人はその対談の中で、「ポエム」と「詩」との区別、
また「詩」の読者の現状について、このように語っている。

田村  形式こそ似ているものの、詩と「ポエム」は別物だということですね。だけれども、「ポエム」が今一般的なイメージになってしまっている。

佐々木 そういうことだね。全然別のものが一緒くたに「詩」と呼ばれているっていう現在の詩の状況っていうのがあるってことだ。(略)
今野  詩を読むのは詩人の卵ばかり。この状況をなんとかしたいな、俺は。

しかしながら、「詩」の読者が、「詩人の卵」が「詩史(および詩-制度)」に縛られている以上、
現状を抜け出すことを願うのは、井の中の蛙が現状を嘆くに等しいだろう。
彼らが実践しているような詩と音楽のコラボレーションというのは、確かに井戸に一縷の糸を引く試みである。※8
だが、、、ここでも我々は狐火の書くリアルにまで直面しなければならない。





しかしながら、「詩人」にとって救いなのは、そのほとんどが狐火のような詩人を知らないことだ。
まったく、「シ」と同様に。





(文中敬称略)









※ なお、このレビューにおいて以下を除外してある。

コミュニケーション  コミュニティ  社会(性)  パスティーシュ


※ ついでにレビュー内にいくつか裏テーマ有り。



脚注
※1 プログラミング言語(code)とエンコーディング(encoding)されるコード(code)とを混同してはならない。

※2 「ニッポニア二ッポン」を「デジタル・ポエトリー」、もしくは「アート」および「詩」と分けて語っているではない。あくまでも便宜上の用法にすぎない。
    「ニッポニア二ッポン」とは「AR詩」として語られるべきであり、(こういって良ければ)一義的な存在と考えるべきものである。
      したがって語源的な意味においても、「解釈(interpretation)」ではなく「エンコーディング(encoding)」とするのが相応しい。

※3 言うまでもないが、この作品を一人でor皆で見る、といった議論をしているのではない。

※4 訳語が不適切と思われる方もいるかもしれないが意図的な選択である。ま、あんま気にすんな。

※5 Roberto Simanowskiは、クレメント・グリーンバーグ、ペーター・ビュルガー、ダントーらの議論を踏まえた上で、
  「デジタル・アートは――矛盾した結論だが――それはderriere-garde(後衛)であるからこそavant-garde(前衛)である。」と述べている。
   その意味するところが気になる方は調べてみると良い。(そんな奴いないと思うが。)

※6 私見であるが、反現代死の諸作品は現代詩フォーラムや投稿掲示板、ブログなどではなく、固有の展示スペースを持つべきであると考える。

※7 ni_kaの諸作品が詩史(および詩-制度)に沿ったものではないという意味で、ni_kaの作品が「詩」足る要件は弱い。
   ではどのように位置づけるか、という点について、どちらに対しても筆者はそれをする義理はないので割愛。

※8 試みについては下記URLを参照 http://kikan26.exblog.jp/15775725/

2011/08/14

厚顔無恥

メモ書き程度。

そもそも、ああいうのは引用元のセンスが問われるけど、
二人共、そこらへんからしてまーったくセンスがない。
DJ Shadowとはもっとも縁遠い人達かな、って感じ。
まあ、その名前も知らなさそうだけどね。

やるんなら私家出版で50冊印刷されたかされてないくらいの小説とか詩集からやってほしい。
あと、ご教養とか言ってるくらいなら、お前ら邦訳ばっかじゃなくてちゃんと洋書も読め。

ついでにジャンルも狭い。もっと意表ついて○価学会の教祖の言葉とかビジネス書とか、
月刊『現代農業』とか、文学以外からも引っ張ってきて欲しい。

あとパッと思いつくだけでも、宮川淳と清水徹が大昔に似たようなことやってることも、
誰か突っ込んでほしい。あれじゃ、のペーっとのんべんだらりんと自分の(それも狭い)知識の
ご開帳or読んだ本のご開帳にして自己顕示くらいにしかなってない。

そんな事も知らないのだとしたら、ご教養が聞いて呆れるね。

もしあれに意義を見出すとすれば、コラージュの陳腐性を突き詰めて、
コラージュ(またはその手法)そのものを問いに付すような作品を創っている、
という所になるけど、話を聞いていると、どうやらそうではなくて、
作者達は本気であれが美だと思っているらしいので閉口。
問題意識なんぞ全力で皆無。

結論としては頭悪いだけの人達。話をする価値すらない。

PS 月刊『現代農業』は目次を読んだだけでワクワクする雑誌なので
ぜひ一度お読み頂きたい。9月号も「サトちゃんのもっとロープが使いやすくなる工夫2つ」
「かんたんお灸で乳牛の発情バッチリ」とかあって超面白そう。
グラビア特集は「牛の健康と安産を祈祷する」だそうなので、これも必見かと。

あと10月号(予告)にある「虫と動物・ウンコ比べ選手権」は激闘の予感がプンプンするぜ。

2011/07/27

これも詩なんだろ そうなんだろ そうなんだろって

いろいろと言う前に下のリンクをクリック×2。

http://tinyurl.com/3cwu7kh
http://tinyurl.com/3qd7k6e

これが何なのか、一読して分かった人はかなり鋭いんだろって。
が、(自分を含めて)ほとんどの人は???な英文の羅列に戸惑ったのではないかな。

以上のリンクにあげたのはKenneth Goldsmithという詩人の作品。
現代メリケンのConceptual Poetry(概念詩)をリードする人だ。
みんな大好きUbuWebを立ち上げた人でもあるぞ!

さあ、こっからネタばらし。

最初のリンク作品、タイトルは「Head Citations」というのだが、
これは全編ゴスペルやらロックやらから抜き出したいろんな歌詞を、
800行以上の引用詩として成立させちゃった作品だ。

2つめの作品「Soliloquy」は、
月曜日から日曜日まで、1週間つぶやいた独り言をつぶさにまとめて詩にしてしまった作品。
サイトの作りも凝ってて、とても面白い試みだと思う。

他の作品を見ても妙ちくりんなのばっかり。
13時間もの間、自分の身体の動きをずーっと細かに言葉にしてた作品とか、
渋滞に巻き込まれたときの独り言だけを集めて詩にしちゃった作品とかもあるよ。

中でも一番長くて変なのは、1年間の天気予報を“全部”文字に起こしちゃった
「The Weather」っていう作品。

この人がすごいのは、単にそのアイディアだけではない。
実際に声に出して読んでみると分かるけど、そんな試みで作られた作品の言葉が
妙に連なっていて、見事な韻文作品となっていることなんだ。

さーて、自分もどっかのサイトで引用ぶちかまして、これは自分の詩作品なんだ!って
誇っちゃてる人を見たことあるけど、その人にKenneth Goldsmithさんくらい練られた
アイディア、その思慮の深みはあるのかな?
それにその作品が音として見事なものになっていたっけ?

残念ながら、自分にそんな記憶はないんだよねー。

2011/07/18

(約)10年前の詩投稿掲示板

話の流れでInternet ArchiveでURLあれこれしていたら、ずいぶんと古めかしいものが
出てきたので、せっかくなので貼っておく。
というかまあ、一部の人達にとっては「晒 し 上 げ」なんだがな。覚悟してみるが良いよ(◕‿‿◕)

あ、あをの過程さんの作品もあるなー。まとめサイトに加えないと。

[ くぐもりってなに ]


若手オンライン詩人による集まり。
2002年2月に発足、4月公式サイトオープン。
サイト管理、代表を、発起人であるちょりがつとめます。
メンバーは入れ替わりを何度か経験しつつも、
現在はちょり、吉野櫻、愛、kana、郷、れっつら、なつみ。

目的とは 、最近とみに活性化してきたネット詩状況のなかにあって、
10代やそれに準ずる若手の詩人たちが、
詩を書く力や、詩を読む目を研鑚できる場所があったらいいな、
と思っていたところ、周囲の若手詩人たちの賛同を得て発起にいたりました。
メンバーは、投稿された作品に感想や批評をつけ、
また、他者から批評されることによって、詩を書く力、読む力を伸ばします。
そして、くぐもりから得たものを己の詩作にも生かしていく。
その成果は、随時更新される自選詩集や、
投稿掲示板への投稿作品、批評などによって確認することが可能です。

そしてなによりもくぐもりは、メンバーや他の参加者にとって
「詩をたのしむ場所」「詩を知る場所」であってほしい。
詩をはじめて書いたようなひとでも、
ふらっとやってきて色んな詩に触れて。会話して。
それで、他の色んな場所に旅に出る、
いわばベースキャンプであってほしいのです。

(文章:ちょり+れっつら)

■メンバー
http://web.archive.org/web/20030908143540/http://www.fides.dti.ne.jp/~s-sen/profile.html

■コンテンツ(過去の中から抜粋)
http://web.archive.org/web/20030501140344/http://www.fides.dti.ne.jp/~s-sen/

■投稿掲示板(残ってたもの。詩の投稿板をクリックするよろし)
http://web.archive.org/web/20040307204107/http://www3.kcn.ne.jp/~rirst-51/cgi-bin/cbbs/cbbs.cgi?mode=alk&page=0

http://web.archive.org/web/20031208132057/http://www3.kcn.ne.jp/~rirst-51/cgi-bin/cbbs/cbbs.cgi

http://web.archive.org/web/20021221132903/http://www3.kcn.ne.jp/~rirst-51/cgi-bin/cbbs/cbbs.cgi

http://web.archive.org/web/20020312104002/http://www3.kcn.ne.jp/~rirst-51/cgi-bin/cbbs/cbbs.cgi?page=0

http://web.archive.org/web/20021127181802/http://www.fides.dti.ne.jp/~s-sen/

http://web.archive.org/web/20030910003510/http://www3.kcn.ne.jp/~rirst-51/cgi-bin/cbbs/cbbs.cgi

http://web.archive.org/web/20030505184525/http://www3.kcn.ne.jp/~rirst-51/cgi-bin/cbbs/cbbs.cgi

スレッドの横の「ALL」っていうアイコンをクリックするとレス含めて一覧で出るぞ。
あと「記事全文表示」にすると見れる作品とかもあるぞ。最果タヒの中学時代の作品とかな!
それでも出ないのもあるけどな!よいこのみんなはこぞってInternet Archiveに文句言うように。やくそくだぞ!

■雑感
あっしはここ2年くらいでネットに出てきた新参者ですんで、此頃のことを
よくは知りやせんがね…。

10年一昔なぞと言うものの、ネットでの10年なぞ時代で例えれば幕末くらいになるのか。
その幕末に10代の有象無象があれこれ考えてサイト立ち上げて、きちんと企画とかもやってたわけだ。すごかねー(棒読み)。
2005年だか06年だか07年だか、はたまた04年だったか、いとうさんがインターネットの詩、
それも投稿されているような詩にはアーカイヴ性がない、とおっしゃっていたが、これを見ると宜なる哉。
だが、このサイトを見てどうのこうの言いたいであろう若者よ、君にそれを言う資格はないのだよ。

このサイトを初めて見た自分が言うのも何だが、既存のサイトなんかで満足せず、
若いからこその志(あ、今は死語でしたね。失敬)をもって、サイト立ち上げて
自分たちで価値観を打ち出そうとあれこれやっちゃってた彼らの姿勢は見習うところも
多くあるのだと思うのですよ。なーんもやってなくてブウブウ言ってる奴に
ブツクサ言う資格はないさね。

ま、これは程度の差というやつか。しかたなかとー(棒読み)。

とはいえ、昔ここに投稿されていて、現在も活動されていて、はたまた輪廻転生を経て
今ある方もいるかもしれないから少し言っておくか。

10年ですってよ!?今ではもう(年齢的には)「大人」と言われても仕方ない歳でしょや。
投稿されていた方々が、現在どれほどネット、はたまた詩にコミットされているかは存じないが、
ネットの詩の現状を省みるに、この世代の奴も、ちったー責任とらんといかんというか、
「どげんかせんといかん!」と思ってもいいんじゃなかと?と、感じてしまうとばい。

さて、あっしは・・・といえば、この時代はこうした形でしかご存じないし、
詩歴も2年くらいと浅いんで、好きなように思うようにやらせてもらおうかな。
生存戦略、しなくてはならないのでね。

2011/07/11

生存戦略

■輪るピングドラム
http://penguindrum.jp/

くだらない日常をぶち壊すのは、河原に転がったセイダカアワダチソウの草むらに潜む知らない誰かの死体。そして知っている誰かの黒焦げに焼け焦げた姿態。

それが世界。ペンを走らせるこの僕の指先のインクの流れる切っ先にそうした記憶と、
「シ」なるものが顔を見せている。その顔はニコやかに死者の栄光とカーニバルを踊る
「セカイ系」
なる言葉さえも既に日常になった物語をブチ壊すには、(文字通り)「Rock Over Japan」になってしまった日本を、それでも続く日常をブチ壊すには、これっくらい突き抜けた「シ」を通り壊した歌と踊りとカット割に連動したSEとケ レン味ある女物の甘ったるい(それでいて百合の香りの感ずる)パフュームの臭いするボディラインとロックでなければならない。

「自分」や「世界」といったものは、そうした破れた部分、僕らの日常、僕らの生存領域を形作る河原の境目(リバーズ・エッジ)から見えてくる。
水族館で買ったおもちゃを被った妹の、そして複数の意味する「シ」であろうと「ロック」であろうと、それは文字の切れる黒と白の「余白」からキレる僕らのブチ壊して燃やしてしまいたい欲動そのものだ。

 平坦な戦場でぼくらが生き延びるための。

でもここが戦場と気づかせてくれるのは迫撃砲の一発と「シ」でしかない。

おそらく、2011年は2004年以来のアニメの当たり年になる。
「まどマギ」が繰り下がって、おそらくこれが2011年のベストになると思う。
燃え尽きた灰の残り火が、現代思想崩れのインテリアニメヲタクの吐息をかって飛び火している「フラクタル」が表現したかったけどダメだったものが これにはある…少なくとも、ここ数年直に「カタルシス」を感じられる作品というのはなかったし、その「カタルシス」こそ「フラクタル」にはなかったもので ある。(日常を浄化するのは皮膚感覚を刺激する人肌か、作品の喚起する「カタルシス」なのだ)。

というわけで、今年はまだガンダムAGEもあるし、現段階では3番手に位置してる「C」や、
ギャグアニメとしても超出来のよい「アザゼルさん」もあるので、これからの展開を期待するばかり。

P.S.
今日、「Rock Over Japan」をTHE ROOSTERSの曲だと勘違いして話してしまった友人すまない。A.R.B.だったね。

P.S.2
そしてED曲がCOALTAR OF THE DEEPERSの新曲と知った自分は狂喜乱舞してしまうのでした。4年ぶりの新曲だぜ!NARASAKI最高!最高の気分!ヒャッハー!!