2013/01/30

【HHM参加作品】Ex-(hibition) × Ex-(tinction)―― ni_ka, 反現代死


   祝祭の家に行くよりは、喪の家に行くほうが良い
                          ―――コヘレトへの言葉 7:2

   芸術の源泉である非-芸術、
   そしてこの低音たる知恵は言い得るのだろうか?
                          ―――Jean Wahl



HHMの規定において、「作品論に限定」、「詩のサイト発でありながら詩以外のあらゆる作品を対象とする」とあるが、
これから論じるものは以上の規定に当てはまっているか定かではない。(というか、勝手に判断してくれればいい。)
以下では、ni_ka「AR詩」、中でも「ニッポニアニッポン」と呼ばれる作品(展示終了)および、反現代死の諸作品について論じる。



■参照

ni_ka「ニッポニアニッポン」(展示終了につき、Togetterまとめ)
http://togetter.com/id/ni_ka

反現代死
http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=8915


インターネットにて2012年に浮上してきた2人の詩人の作品について、詩を書くものが語っているのを、
つまり「詩人」の側から語っているのを私は観たことがない(もっとも、「詩人」がこれらを語るものなんぞ興味無いし読むはずもないが。)
何故か? 1つには2人の作品が一般的な「詩」より逸脱した作品であることがあげられるように思う。

しかしながら問題なのは、「詩人」が何故このような作品について語れないのかという彼らの怠慢である。
すなわち、多くの詩人は自らが語れるものを「詩」とし論じているだが、残念なことに彼らの視野はあまりにも狭く、
「詩」それ自体の中で完結する。それは同時に排他的ですらある。

近年(いや、以前から)“詩を読む人の少なさ”が嘆かれているが、その恒常的な病の原因の一つは、
このような詩-世界(Art-WorldにならってPoetry-Worldと文字ってみる)の構造そのものである。
またこの頃一つ聞かれる言葉に“作品の質が低下している”というものがあるが、
この言葉を言う前に、我々は栗田勇が「詩の質の低下と技術の低下」を嘆いた時、まだ彼が34歳だったということを思い出さねばならない。

閑話休題。

それでは始めよう。ただし、これは批評(criticism)ではなく、私なりのレビュー(review)である。



   今日の芸術家はもはや生産しない、あるいは生産することが一番重要なのではなく、芸術家は選別し、比較し、断片化し、
   結合し、特定のものをコンテクストのなかへ入れ、ほかのものを除外するのである。
                                          ―――ボリス・グロイス


「ニッポニアニッポン」、それはディスプレイされた/に映しだされた作品――見た目は“キャンディの包み紙”以上でもそれ以下でもないのだが――
自体に包みこむことであり、またそれは作品に内包されたメッセージである「喪の限界」を、「観客/読者」とともに包み込んでいる。
したがって、この作品において創り出されるのは、作品それ自体だけではなく、「喪」、そして「喪の限界」となった「観客/読者」自身である。

ディスプレイされた/に映しだされた作品――見た目は“キャンディの包み紙”以上でもそれ以下でもないのだが――に包みこむことであり、
その作品に内包されたメッセージである「喪の限界」を、「観客/読者」とともに包み込む。したがって、この作品において創り出されるのは、
作品それ自体だけではなく、「喪」、そして「喪の限界」となった「観客/読者」自身である。

既に、そして常に我々は「喪の対象」である。日々の生活において忘れ去られているこの単純な事実を、
「ニッポニア二ッポン」は観客/読者として出力(print)する。
「ニッポニア二ッポン」において、それを「詩」と成立せしめる核となる言葉は、この「出力(print)」という言語構造(code)である。※1
(その意味において、この詩の読者は「解釈(interpretation)」するというよりは「エンコーディング(encoding)」すると言うべきだろう。
読まれうるのは詩ではなく読者そのものなのだから。)※2

その一方、この作品がメッセージ(内-容)を表しているという意味で、「ニッポニア二ッポン」は「記号」として転化し得る。
この審級においてこそ「喪の限界」というものが語られうる。ボードリヤールの古き言葉を思い出そう。
「われわれは記号に保護されて、現実を否定しつつ暮らしている。これこそまさに奇跡的な安全というものだ。」
災厄によってそこに残されたモノ、荒涼とした光景を、「記号」としての「ニッポニア二ッポン」が我々の目を覆う。
所詮、我々は危険区域圏外にいるのだと、目の前のインターネットデバイスがささやく。
「世界についてのさまざまなイメージを目にする時、つかの間の現実への侵入とその場に居合わせないですむという
深い喜びとを誰が区別したりするだろうか。」

「喪」の意識はこの作品に包まれることによって創り出されると同時に脅かされる。包み込むとは同時に視界を遮断することである。
いかにこの作品が「喪の対象」として観客をそれとして成らしめようとしてもなお、“死を経験することはできない”という原則――
“死は生とは切り離されたナニカ”である――が安易に作品の「記号化」を促す。
言い換えれば、死という経験外のナニカを“疑似”体験させる、という構造が、「喪」を、「死」を、
単なるそれらのアナロジーとしての「記号」へと転化させるのである。

すなわち「ニッポニア二ッポン」という作品の構成上、「喪」とは「観客自身」のそれであり、「他の誰か」に対しての「喪」ではない。
ここで「ニッポニアニッポン」という作品自体が「他の誰か」(例えば作者)であり、それ自身が「喪の限界」を表している、ということもできるだろう。
しかしそれでは、いとも容易く先述のアナロジーの罠へ陥ることとなってしまう。
もちろん「自身の喪」を通して「他の誰か」の「喪」への念を抱くことはできる。しかし、それは結局自身に向かう意識であり、
「他の誰か」へ向けられる意識ではない。“ブラウザ”と“観客”という対応関係――閲覧環境には「他の誰か」の視線が欠けているのである。※3

また観客を「喪と成らしめる」この作品の構成は、この作品自体が「暴力」であることを暗示しているように思われる。
それは「他の誰か」の視線が欠けた「暴力」、そのような人の意識の及ばないところで行われている強姦まがいの「暴力」である。
女性-性という位相を持ちだしてくるとすれば、それは目の前を覆う色の氾濫、それが観客に行使する色彩としての「暴力」でもある。
「喪の限界」において、我々は「暴力」という「喪(の限界)」の時間な規定に晒される。
すなわち我々は未だに「暴力」に囲まれているのであり、既にその一部なのである。
(だがその暴力を自分自身に行使して「自己非難(Self-abasement)」になってはならないだろう。)

これはこの詩を読む読者にとって、(あの忌々しい)「人称性」の問題という形で示される。それも、「人称の欠如」という形で。

この詩には人称が欠けている。「他の誰か」の視線の欠如、また「暴力を振るっているのは誰か?」という問いは、
この作品が目の前を色彩で満たすことによって覆い隠しているもの、すなわち「人称性」という余白に起因するものである。
そしてこれこそ「ニッポニア二ッポン」が「喪の限界」を、問いという形で突きつけているものである。

■Extinction Elegies : a post-Fukushima interactive video-poem tht introduces mutations into the DNA of meaning.
http://glia.ca/2011/extinctionElegy/

以上のURLリンクはカナダの詩人David “Jhave” Johnstonが2011年に発表したデジタル・ポエトリーである。
手法や見/読み方はリンク先にあるので、詳細は割愛するが、「ニッポニア二ッポン」と関係して、
我々の福島の後を扱った作品として紹介したい。

デジタル・ポエトリーの積極的な論者であるRita Raleyはこの作品について、Jhaveの言葉を借りながら、プログラミング言語(code)/テキスト、
アナログ/デジタル、主観/客観などといった、デジタル・ポエトリーを論じる上で語られる二元性を調和する試みとしてこの作品を説明している。
それには上で私が述べたこととも一部共通するところもあるのだが、『Extinction Elegies』において福島は主題でなく、
むしろステートメントにあるように、言語とその置かれた(社会)環境との関連性に主眼が置かれている。
またRita Raleyの論も「デジタル・“ポエトリー”」というカテゴリー(の拡張)について論じるにあたり、
結局はJhaveの「言葉(text)」に、その多くを依存しており、作品それ自体の内容を掘り下げて論じているというわけではないのには留意する必要がある。

広義にはこういったtext-baseな作品がデジタル・ポエトリーというカテゴリーに属しているのだが、
逆に言うと、(text-baseではない)「ニッポニア二ッポン」が「デジタル・“ポエトリー”と言い得るのか?」
また「何故これが“詩”でなければならないのか?」――「ニッポニア二ッポン」はこの質問に答えられるのだろうか?

これは「“詩”と言いうるのは何か?」という「限界」、そうした根本的な問いにまで射程を広げることができるだろう。

■Dans la gueule du loup(In the lion's mouth)
 http://www.poemsthatgo.com/gallery/winter2003/clauss/index.htm

「ニッポニア二ッポン」と同じくtext-baseではない作品としては、上記URLにあげた
Nicolas ClaussとJean-Jacques Birgeによる『Dans la gueule du loup』という作品を紹介したい。

まず映像とは視覚的記号と内容の結合体である。例えば、この作品において視覚的記号とはオオカミであり、
そのオオカミが何を示しているかという意味が内容にあたる。また視覚的記号と内容との結合は観客がそこに介入することでインタラクティヴに決定される。
つまり、記号(expression)と内容(matiere)の関係性に、読者が介入するというプロセスを経ることにより、それは読者は解釈-する者(interpret-ant)となる。※4
このように簡潔に述べたが、以上が「読む」ということになる。畢竟、「読む」という行為が遂行されうるものは全て「詩」と名乗る権利を持つのだ。


したがって、反現代死が発表した以下のような作品も言うまでもなく「詩」と名乗る権利を持つ。

■ばけぬこー^
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=251249

■crc
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=257444

反現代死の作品において、我々が目にしているのは記号、残骸、トゥイッターのタイムラインからコピペしたような単語と文、
文脈を切り離されて繋ぎ合わされたURL(URLも内容を持った文字列である)もどきと言葉、
もしくは文字化けした言葉の残骸、ゴミ、クズ、現代詩の真似をしたクソのオンパレード――インターネットの「Merz」。
あるいはダダ、レトリスム、、、のような、魔力のない"できそこないの物語"である。

にもかかわらず、反現代死の作品は「詩」であり、インターネット上における言語芸術(text-based Art)を追求するに辺り繰り返される初元的な試みである。
何故インターネットにおけるこうした諸作品は、アヴァンギャルドないしコンセプチュアルなスタイルで参照・提示されるのか。という問いについて、
Julian Stallabrassが、インターネット上のアートが未だ美術史的な位置づけを得ておらず、だからこそ自らをアートとして位置付けるためには
そうした表現手段を取る方が手っ取り早く確実であるから、と説明しているのは拝聴に値するだろう。※5

私は先ほど「ダダ、レトリスム、、、のような」と述べたが、それはつまり、反現代死の諸作品は相対的にではあれ、
インターネット上でのそれらが「詩(および詩史)」の系譜に連なることを示している。
逆に言えば、「『読む』という行為が遂行されうるものは全て『詩』と名乗る権利を持つ」にもかかわらず、
反現代死が自らの試みを「詩」として示す(詩として受容される)ためには、詩史(および詩-制度)に回収されざるをえないということでもある。
反現代死がそれを望むのか望まないかは定かではないが、おそらくその憑き物を祓わない限り、評価は好転しないだろう。※6
しかしながら、詩史(および詩-制度)とインターネットにおける詩という関係に針を刺す、という意味で、反現代死の諸作品は意義を持つものではある。※7

一方、これはインターネット上の「詩」の読者が、如何に「詩史(および詩-制度)」に繋がれているかを示している。


季刊26時の主催者である佐々木青、今野大地、田村大介の3人はその対談の中で、「ポエム」と「詩」との区別、
また「詩」の読者の現状について、このように語っている。

田村  形式こそ似ているものの、詩と「ポエム」は別物だということですね。だけれども、「ポエム」が今一般的なイメージになってしまっている。

佐々木 そういうことだね。全然別のものが一緒くたに「詩」と呼ばれているっていう現在の詩の状況っていうのがあるってことだ。(略)
今野  詩を読むのは詩人の卵ばかり。この状況をなんとかしたいな、俺は。

しかしながら、「詩」の読者が、「詩人の卵」が「詩史(および詩-制度)」に縛られている以上、
現状を抜け出すことを願うのは、井の中の蛙が現状を嘆くに等しいだろう。
彼らが実践しているような詩と音楽のコラボレーションというのは、確かに井戸に一縷の糸を引く試みである。※8
だが、、、ここでも我々は狐火の書くリアルにまで直面しなければならない。





しかしながら、「詩人」にとって救いなのは、そのほとんどが狐火のような詩人を知らないことだ。
まったく、「シ」と同様に。





(文中敬称略)









※ なお、このレビューにおいて以下を除外してある。

コミュニケーション  コミュニティ  社会(性)  パスティーシュ


※ ついでにレビュー内にいくつか裏テーマ有り。



脚注
※1 プログラミング言語(code)とエンコーディング(encoding)されるコード(code)とを混同してはならない。

※2 「ニッポニア二ッポン」を「デジタル・ポエトリー」、もしくは「アート」および「詩」と分けて語っているではない。あくまでも便宜上の用法にすぎない。
    「ニッポニア二ッポン」とは「AR詩」として語られるべきであり、(こういって良ければ)一義的な存在と考えるべきものである。
      したがって語源的な意味においても、「解釈(interpretation)」ではなく「エンコーディング(encoding)」とするのが相応しい。

※3 言うまでもないが、この作品を一人でor皆で見る、といった議論をしているのではない。

※4 訳語が不適切と思われる方もいるかもしれないが意図的な選択である。ま、あんま気にすんな。

※5 Roberto Simanowskiは、クレメント・グリーンバーグ、ペーター・ビュルガー、ダントーらの議論を踏まえた上で、
  「デジタル・アートは――矛盾した結論だが――それはderriere-garde(後衛)であるからこそavant-garde(前衛)である。」と述べている。
   その意味するところが気になる方は調べてみると良い。(そんな奴いないと思うが。)

※6 私見であるが、反現代死の諸作品は現代詩フォーラムや投稿掲示板、ブログなどではなく、固有の展示スペースを持つべきであると考える。

※7 ni_kaの諸作品が詩史(および詩-制度)に沿ったものではないという意味で、ni_kaの作品が「詩」足る要件は弱い。
   ではどのように位置づけるか、という点について、どちらに対しても筆者はそれをする義理はないので割愛。

※8 試みについては下記URLを参照 http://kikan26.exblog.jp/15775725/

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