Critic(批評)”という言葉――語源を辿るということは「論述の一手法、一形式にすぎない」というジャン・ポーランによる指摘を省みつつも――“Critic”あるいは“批評”という語源。
(主に雑誌・新聞などで用いられる“レヴュー(review)”という言葉も「批評」を意味する……。)
“Critic”という単語。羅語:criticus/希語:kritikos「判断/評価を可能にすること;able to make judgments」または希語:krinein「区別、判断/決断すること;to separate, decide。“krinein”の同原義語――“Crisis__「区別、判断/決断、評価すること;to separate, decide, judge」。
“批評”という単語。“批”*「ヒ」{声音}――“平手打ち”“強くうつことをいう”/「排と通じて用いる」(「排」から転じる、価値判断という含意)=(もちろん一語で「批評、評語、しなさだめ」という意味も持つ)。“評”*{声音}――「平」=「秤」のこと:“公平に評議することをいう”
すなわち“批評”……区別、判断/決断、評価すること;to separate, decide, judge
しかし、何がこの別離〔作品:作者:読者〕へと向かわせるのか? 「批評する」とは、あたかも〔作品:作者:読者〕という一組のカップル――それも、互いに“はなればなれ<Bande à part>”の――に向かって、一分間の沈黙を強いるかのようでさえある。
だが、やがてそのうちの一人が沈黙を破る。沈黙の中に彼が浸入する。「まるで永遠のようだ」という声と共に……それは彼らをそのシークエンスから“引き離し;separate”、それ(彼らの{沈黙}という状況)に「永遠のようである」という“評価;judge”を与える。また、彼の声の侵入とは「沈黙を破る」という彼自身の“決断;decide”に他ならない。
つまり「批評する」とは『沈黙を破ること』、それも、『彼自身の声をもって、その空間に振動を加えること』であるのだ。
作品は、沈黙した、眼に見えぬ作品は、ひたすら、みずからそうであるところのものなので
ある。すなわち、閃光にして言葉、自己主張にして現前であり、その〔批評言語の語る〕とき
作品は空虚のなかで、みずからを変質させることなく、いわば作品全体についてのようにし
て語りだす、――批評的介入がみずからの使命として産出した、あの良質の空虚のなか
で。批評言語とは共鳴空間なのだ――作品の、語らず、不確定な実体が、そのなかで、一
瞬、変容して、みずからを言葉へと閉じこめるような共鳴空間なのだ。
―――モーリス・ブランショ
静止した水面に一滴の雪が落ち、細かにその表面を波立たせる。そして、しと落ちた批評言語もまた、その水のうちへと溶け還ってゆく。そのとき批評言語とは、すなわちこの「雪の結晶」、その様々な形態、あるいは美しさに他ならない。そして、この雪の起こす波(Pulse:Vague)が、水底の黄金の輝きを映し出す……たとえそれが<Fool's gold>であったとしても。
I'm standing alone
I'm watching you all
I'm seeing you sinking
I'm standing alone
you're weighing the gold
I'm watching you sinking
Fool's gold
つまるところ、〔作品:作者:読者〕という一組のカップルは、この財宝を狙う共犯者である。彼らはその財宝を欲し、盗みの計画を立て、その価値を値踏みする。一分間の沈黙とは、その共謀のプロセスにおけるほんの「気紛れ」にすぎない。しかし、彼がこの「沈黙を 破る」ことによって、彼らは密かな連帯を確認する。そのフレームは共犯者とそれ以外とを“区別;separate”するが、その計画(あるいはフレーミング)の“決断;decide”はすでになされている。〔作品:作者:読者〕というカップルは、そもそも連綿と続く(各人それぞれの)“決断/判断;decide”によって、形成されているのである。彼らはフレームの外で、個々の言葉を取捨選択し、その言葉に“判断を下し;decide”、そうして洗練された言葉をフレームの内で発話する。
だが、彼らの連帯がすでに“決断/判断;decide”されたものであるからといって、それは互いの意見が一致するということではない。
そう、実のところ彼らの意見が一致することなどないのだ。(「自分を理解してくれる人の言葉だけ聞いていればよい」というのは、自分自身の宝しか見ることをしない臆病者、あるいは、彼らの車を飛ばすガソリン代までケチる守銭奴の言葉だろう。)むしろ、フレームの内では〔作品:作者:読者〕それぞれ個々の“決断/判断;decide”と、{決断/判断された内容[言葉]}との差異に眼を向けなければならない。その差異とは、フレーム外の音と彼らのいるイマージュ(あるいはモンタージュとのズレ)として現われる。
一人は軽快に脚を軽上げ踊る[読者(批評者)]――その実、彼は彼女との甘いランデブー(rendez-vous;"present yourselves"を語源とする )を夢見ているのだが――であり、一人はこの世の実存と虚無、胡蝶の夢についてのイマージュを思索[詩作]巡らせる[作者]であり、残る一人は自らの胸の揺れとそれの効果とを気にする“女性”[作品]である。たった5分足らずのこのシークエンスほど〔作品:作者:読者〕の関係を簡潔に説明しているものはない。それは男と男との一人の女性を巡る恋の戯れであり、必然的にそれはカフェの{沈黙}を破る“彼女”にかりたてられ、つかぬ間のひとときを一緒になって軽快なタップ/ダンスを踊るのである。
そしてそのフレーム外に声が介入する。かつてロラン・バルトはそのフィルム分析において“第三の意味”を提唱したが、彼はその声がフレームの余白にあるがためにその声を聞き落としていたのだろう(彼はあまりにも映像表現の持つ視覚性・記号性に固執しすぎていた)。吉田喜重はヌーヴェル・ヴァーグについてのあるインタビューの中で、映画表現の持つイデオロギー性とロラン・バルトの“第三の意味”を関連付けて語っているが、このイデオロギー――〔作品:作者:読者〕/三位一体;Trinityとなった“神聖(にして冒されることのない)”イマージュ:映像:視覚性という断ち得ない制度――を逸脱させるものとして、<映画の余白>というべきものを語っている。
(ヌーヴェル・ヴァーグというのはそういう意味[余分なものが残ってしまって消えない。結局
はそういう説明不可能な部分が結局は映画だということ(意味)]で、)全くイデオロギーから
はずれた余分なものを、それを誰も名ざすことのできない余白を、いわばマイナスのカード
を全部集めて一気に逆転させるような美学だった。
―――吉田喜重
この<映画[フレーム]の余白>に生じた声:音階;音“波(Vague)”。これを“誰か?”、と問うことは偽りの問題に陥ることになる。問題は生じるのではなく、〔作品:作者:読者〕によって(既に)骰子を一擲され、形成されつつ“あり/なされる/値踏みを賭けられる”ものであるからだ。それはフレームの外で、取捨選択された個々〔作品:作者:読者〕の言葉によって形成された“新しい(Nouvelle)”「雪の結晶」なのだ。
改めて言及しよう、「その差異とは、フレーム外の音と彼らのいるイマージュ(あるいはモンタージュとのズレ)として現われる。」“誰か?”とは、“なく”、しかしながらそれは“彼ら”であり、“彼ら{の}”差異そのものの、そしておそらくは彼ら自身でさえ“はなればなれ”になったズレ――Bande à part――でもある……それらの差異をゆらがせ、気化熱として発生させるもの――それこそが『<余白>の声』であり、「批評する」という行為である。
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