2011/06/04

白の海域

                               ―――ステファヌ・マラルメ
     全世界が溶解する
                  波涛
                       のこの海域に

    はうる―――はうりんぐ(howling)
この彷徨し響き渡る遠吠え(howl)が
 この空虚(hollow)―「乾いた井戸」・「干からびた、/陥没」に、 (余白に、)書き記される。
それは方向=意味(sans)を欠いた声として、この余白(blank)に
         その波線を緯度と経度として土地に記される……すなわち、
 詩の地勢(geo-graphy)を規定し――「白地図」とする。


   はうる、
   風が渦を
   巻いていますその中央で
   横たわっているわたしは
   今まさにこうして
   わたしはゆるやかに死にました
                          『とりろーぐ』


ゆるやかに死したわたしの亡き/中心の無き余白(marge)として書き出さされた地勢。
 それはすなわち一人称としての「わたし」なき場、
  私の終焉/周縁(marge)として規定された「他者」の姿を現す。

断片的に記された数々の言葉/「地球儀・「火葬する消火器」・「避難経路」etc...
  しかしながらそれは既にイメージではなくその墓標とも言うべき徴=記号(signe)、
   あるいはその破片(fragments)、断片=残余(remnant)である。

なぜならば、この咆哮=彷徨するもの―― [はうる、/あなたは/憶測の記憶であり/繁茂する水の/渇きでもあるから]

   乾いた記号を
   痛みだと誤認するのは、
   いつも人で、
   すなわちわたしだから、
   わたしはわたしを
   閉ざすことができない
   円の中心に
   たつのはいつも
   水面の
   ささめく波の
   破片たち、
   黙秘権、
   を
   行使しつづ
   けて、
          『Phantasmagoria』

  水面のさざめく波が<ここ>に流れている(pouring)。ただ徴=記号(signe)が、
方向=意味(sans)を欠いた 「  沈黙」として咆哮が、

   対話との対話を
   繰り返す
                   『とりろーぐ』

 イメージは排されている――― とりろーぐ=tri-logue に
               無き「わたし」の眼差しの不在によって。

                起こりはしなかった
                 眼路にそそぐ不在

                                
場所しか

                               ―――ステファヌ・マラルメ

  この眼差しの不在の場であるこの余白、そこに流れているのは声なき声としての
「沈黙 」の、“他者そのもの”の対-話(pour-parler)である。
  それも眼差しの不在によってそのイメージの剥奪されている“他者”である。

   対話との対話を
   繰り返す赤子の
   指はたいてい傾いていて
   そこから
   とろとろ、と
   三人称が零れている
   わたしや、
   あなたや、
   それら。

 「赤子の指」という断片=残余(remnant)から、「繁茂する水の渇き」を満たすようにして、
「とろとろ、と/三人称が零れている」
                  ――「わたしや、/あなたや、/それら。」
 しかしながらこの「とりろーぐ=tri-logue」において、既に「わたし」は亡く/無く、
   その眼差しは閉じられている。

だが、この「三人称という代名詞は、客観的・対象的な領域を指示している」に留まっている
 がゆえに、
   実際の<語る主体>としての人間にかかわらぬ……むしろ<無-人称> non-personne
    と呼ぶにふさわしい。
                          ―――坂部恵


 <無-人称> non-personne というこの余白に他者が現前 presence en personne する。


  この<無>という語について、かつてベルクソンが執拗なまでに忠告(caution)した、偽の
問題、「錯誤」・「錯綜」に陥らぬように、そして真の幻想へと我々を誘うべく、 
  この『Phantasmagoria』は、そのように注意(caution)を繰り返す……あたかも、
 「行方のない回廊」を「青白い 鬼火」が、
  <ここ>を巡る我々にその幻灯を灯すようにして。

   すなわち、このようなパラドクサルな仕方によってしかこの場=余白に現れぬ他者とは、
単なるその姿――イメージ の欠如ではなく、その仮象(appearance)
  =personaを剥奪されたものであり
 (一義的には人称として)未-決定な、その姿態の顕なまま剥き出しとなった“他者”である。

ゆえに、この余白は“他者”であると共に“法”の外として、「法の余白」として
         記/印(marque)されることとなる。

   黙秘権、
   の
   外側に
   行ってしまうのですか、
                   『Phantasmagoria』
   法の遵守は
   ときとしてつめたく、
   黙秘権の外側で
   暮らしはじめた渡り鳥たちが、
   海を渡らない、
   渡られない海が、
   つくられた薄氷を
   うすらひ、
   と
   呼びこんで、
             『Phantasmagoria』

 「白地図」の内に海域が明らかにされる。渡り鳥たちの渡ることなく、
                          渡られぬことのない「海域」。
この不可侵の領域に黙秘権を、すなわちその法を剥奪された“他者”の「 沈黙 」が、
 それを声の不在のままに抗すべく、ただ波音が、「黙秘権が語る言葉」が、

     はうる
         ―――はうりんぐ(howling)

 ソノ、



   黙セル
   漂流

    カソレトモ
       落下シ
        吼エタケル
            神秘カ

   渦巻ノナカニ

   マキチラシモセズ
       ニゲモシナイデ
   ノマワリニ ヒラヒラ トビカイ


            ソノ無垢ノ標識ヲ揺リ

                            アタカモ


            狂乱シタ孤独ナ羽根
                               ―――ステファヌ・マラルメ

 「狂乱シタ孤独ナ羽根」、「存在するはずのない飾り羽をひたすら隠し続けていた」――
この一文が示すのは、隠すことの行為そのもの――であるが、これらの羽根(penna)とは、
文を、あるいは法を書き記す筆(pen)の不在を示している。だからこそ、

   横たわっているわたしは
   今まさにこうして
   わたしはゆるやかに死にました
   と
   書き記すことができる
   わたしたちは
   たくさん死にました
   わたしも
   わたしもわたしも
   わたしたちみな
   地球上にいるわたしは
   絶滅しました と
   書き記すことが
                           『とりろーぐ』

   (余白に、)
         その<書き記/印すこと>が未-決定のまま(余白に、)表される。
 ここには「わたし」・「わたしたち」の<死>の未-決定をも含まれている、と
  さらに正確に言うべきだろう。

 あらゆる「わたし」の出来事/固有性の極地にあって「わたし」の認識することの
決して無い<死>に等比する“他者”の<死>の未-決定。“他者”、あるいは「わたし」
「わたしたち」の<書き記/印すこと>と<死>との統語的な結びつきが未-決定として、
   この余白の、海域の深みに飲み込まれてゆく。

   たとえば
        傾く
         天蓋のもと
            怒り狂う
                 不動の
                     白い
          
深淵
                             ―――ステファヌ・マラルメ

 その海の表面にさざめく。波に流れている(pouring)。余白の内においてたゆたう、
あらゆる未-決定のものの記憶内容(souvenir)が、数々の(sekai no、/yume/夢)として、
Phantasmagoria (幻想)のように  現れる。

   アフリカ あたり の
   よくわからない
   紛争が 大気中から
   検出されたり じょうずな
   赦しかたを 練習 したりする
   行方のない 回廊を

   歩いている
   亡国の 亡国
   を
   産み 落とす
   yume
             『Phantasmagoria』

 それは海上の、「街」の蜃気楼のようにして、起ちあがる。

   街は、
   季節外れの
   クリスマスソングに
   浸されているから
   容れるように
   受け容れられるように、
   つめたい
   摩擦係数を
   忍ばせていく、


   遺失物のように
   誰かを待ちわびる街。


   重力に
   隷従する
   葡萄の一房、
   ひとつきりの平衡が
   氷漬けにされている
   化学繊維によって
   街に組み換えられた街
                 『Phantasmagoria』

 だが、これらのイメージこそ、幻視(illusion)、すなわち「錯覚」「錯誤」
であることを、ここで今一度警告(caution)する必要がある。あらゆる「夢」の眠りに、
 その眼差しは閉じられている。

   caution、
   長い yume を
   見ている 気が する
   のだった
   そしてそれは、
   みぎわに
   小舟をうかべる人の
   疾患でもあった。
                      『Phantasmagoria』

 また、それらの幻視(illusion)は「みぎわに/小舟をうかべる人」の
 「疾患(ill)」として、警告(caution)されているものでもある。

 夢を横切るように、唐突に現れた「小舟をうかべる人」―――<彼>
この『Phantasmagoria』における唯一の<三人称>である<彼>だけが、この不可侵の海域に
 その舳先(Stem)を向けている。
                ここにおいて、
 隠すことの行為そのもの、として示されていた「存在するはずのない飾り羽」―
――筆(pen)は、羽根(penna)の羽軸(Stem)として、“存在するとは別の仕方”で
    <それ>を顕にする。

 この余白、あらゆる未-決定―――“他者”の、「法」の、<死>の、あるいはイメージの
<書き記/印すこと>の、したがって<無-人称> であるこの海域において、<書く>こと、
それは“波を分けてゆくこと(distribuer une vague)”であり、
   その波の<分け放たれ-引き合わされ>という運動――ベルクソンの言葉を借りれば、
「やがて闇に消える不明瞭な光暈」を<対-話(pour-parler)>として、その航跡(trace)を
 を引いていくことである。

 一方、それは剥き出しの“他者”を引き裂くことでもある。

        かの岸の太古のデモン(l'ulterieur demon immemorial)

   波涛に愛撫され 磨かれ 運ばれ 洗われ
           従順にされ堅い無情なものから
               板のあいだに消えうせた骨を もぎ離された  
                  その 子供めく影
                           波しぶきから
                                   生まれた
                    デモン

                              ―――ステファヌ・マラルメ

 従って(Igitur)、この<書く>というデモン(Elbehnon)の狂気―――はうる、
はうりんぐ(howling) オデュッセウスがアルゴスの殺戮者によって航海を決意したように、
<無-人称>の、その応答を引き受けることによってのみ、この航海は可能となる。

   (caution、
   警告する、
   警告を、警告する、
   架空のイヤフォンの対岸から
   架空のイヤフォンの対岸へと)

                      『Phantasmagoria』

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