平川綾真智「胎児」について
黒崎立体
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雪といふものは
物語めいてふり
―――室生犀星
それは雪の、あまりにも美しく、痛ましい照り返しである。
私はその美しさのために書くだろう……それは胎内から蹴り返される母体の「腹」の痛み、またそれを
電線の向こうの変わり行く空に
私は携帯の留守電を、
蹴る腹に向けて
保存した
という雪の核として「保存」し、雪の一枚をその批評として、雪の結晶として舞い降ろすための試みでもある。
電線の向こうの変わり行く空に
私は携帯の留守電を、
蹴る腹に向けて
保存した
雪結晶の核として改めて書き出された四行。
「私」が抗うことをやめたのは、「私」の中で育ちつつあった「家族」である。
そして「家族」のなかで育ちつつ合った一つの雪。
女の子の中で「子」が育っていくように、「家族という存在」もまた「私」のなかで育っていった。
それはまた雪の枝=血を分けた姉の中で育つという枝の分岐;「家族」でもある。
「私(たち)」という家族、「胎児」。それがタイトルになっているこの作品。
8センチよりももっと小さい
家族という名の小さな胎児
姉の胞衣で子供は育つ
私は母のカレーが好きだと
鼻をくすぐるコンソメにこぼす。
飴色のタマネギが ルーの香りに隠れた頃
電線の向こうの変わり行く空に
私は携帯の留守電を、
蹴る腹に向けて
保存した
最終連。とても寂しい姿、雪の降らすこの「空」を見ていた姿。
でもこの姿とは?……“かけ直せない”電話を、家族というほつれた糸を、あるいは電話を抱えるようにして
その「胎児」をかかえ空を見ている、この雪に写し替えされた姿だろうか。
この問いに答えるべくもなく、ただ一つこの雪に写しだされているものがある。
すなわち、生きていく未来と生きられた過去という「雪の表裏」。
これから生まれてくる子どもについて、雪の煌きとそれの創り出す雪影として二重化された
自らの家族のことを「私」は考えているのかもしれない。
「私」のながめているこの空は、「電線の向こうの変わり行く空」は、雪を降らせてしまう。
雪の結晶の冷たさも、その樹氷の連なりも、その痛々しく美しい姿を生み出す空とは
見上げればそこにある。誰にでも共通した「空」(あるいは「空」という言葉)。
また昨日とは違う色を浮かべる
今日の空を背景に続く
電線を追いかけ歩いていると
飴色に炒まったタマネギに注がれる
コンソメの香りが 鼻をくすぐった
続く電線の背景で空は
明日も色を変えるだろう。
その下を歩く私が、この中
照らされることは
またあることなのであろうか
もうあったことなのであろうか
第一連と第五連に注目してみる。
そこにはずっと背中を向けてきたものに対して、どのようにして目を向ければいいか分からない
そんなためらっている「私」がいる。「空」が時間の流れに色を変えるがごとく、
雪の結晶が通す光は、そのスペクトルを「またあること/もうあったこと」という
空の下をあるく私に流れた/流れる(かもしれない)時間の層として、雪の結晶を少しづつ創りだしていく。
‐ 8センチ。
お前にもそんな日があったんだろうね
お姉ちゃんの中でね
8センチでも生きようと
腹を時々蹴跳ばすって。
すぐにお前位になる
笑うんだ、そして。
おばあちゃん、って
母のカレーが一番好きだと
認められるようになった日に
私は携帯の留守電を聞き それだけで
掛け直すことなど出来はしない
第三連と第四連に注目してみる。
“かけ直せない”家族、あるいは電話。その留守電の内容は険悪なものではないと分かっている。
携帯の留守電の主は「私」の母親である。でもだからこそ「私」は「掛け直すことなど出来はしない」。
つまり「私」は/が、揺れているのだ。あたかも雪を通す光が空を揺らすように、
携帯の留守電は/が揺れている……第二連に注目してみよう。
母のカレーが一番好きだと
認められるようになった日に
姉に子供が出来たのだと
携帯の留守電が教えてくれた
そう、「私」はその揺れの中で「姉に子供が出来た」ことを知るのだ。
これは二つの「誕生日(birthday)」である。すなわち、「姉の子どもができた日」と、
「母のカレーが一番好きだと認められるようになった日」。
ここで言われている「母のカレー」とは、「私」自身の家庭を象徴する言葉なのだ。
たとえそれが「私」がこれまで、自らの家族に反発を覚えて生きてきたとしても、
それは「私」にとっては間違いなく「誕生日」に他ならない。
胎児が、母親の腹を蹴跳ばすこと。このように家族という存在は時に心を、内側から殴ってくる。
だがそれは雪が太陽の光を照り返すように痛ましくも美しくも、光の暖かさが雪をまた空へと返してゆく、
そうした姿でもある。
背中を向けても、どれだけ距離を置いても、家族を完全に捨て去ることは難しい。
だが雪が空の冷たさによってしか生み出されないように、雪はまた空の光の暖かさによってしか、
その結晶の美しさを表し、また昇華させることができない……一方で、それは暴力的な関係でもある。
すなわち、そのように“でしか”表させざるを得ない関係であるということでもある。
だがこの雪の結晶が光を照り返すこと。それは雪が光を乱反射する白い暴力であるが、
だからこそその内には、もっとも遠くもっとも近い暖かさと美しさがある。
雪の結晶が光を照り返すこと。
それは雪の、あまりにも痛ましく、美しい姿である。
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